記憶の共有は縁の結び目

ライター角田奈穂子の「雑な生活」ほぼ日記

10年経つと埃もヴィンテージ

今年は届く年賀状がさらに減った。新型コロナの流行前までは、さすがに仕事先は営業ツールとしての役割もあって、どの仕事先からも年賀状が届いていたのだけど、リモートワークが増えた影響なのか、経費削減なのか、ぱったりと辞めたところが多い。

私も一昨年の年末から、「もう辞めようかなぁ、メールでいいかなぁ」と迷いつつ、年配の方や、年賀状だけのやり取りになってしまったメールアドレスを知らない古い知り合いもいるので、この新年も年末に送ってしまった。

今年は届いた枚数がかなり少ないので、お年玉切手シートが1枚も当たらなそうだ。年賀状のお年玉くじも、当たりは売れ残りに埋もれているような気がする。年々、インクジェット用ハガキの質がよくなって、プリンターのトレイで反り返らなくなっているのに、もったいないことだ。

出版の仕事を始めて以来、原稿を手書きをしたことはなく、パソコンで書いているし、スマートフォンが登場してからは、スケジュールも手帳ではなく、パソコンで管理している。手書きの機会がとても少なくなり、「モノ」として残る情報が減ったことは、紙ゴミの削減にはつながったが、なにかを失っているような後ろめたさがある。

それに気づいてからは、予定の管理ではなく、日報のようなつもりで手帳にできごとを書いたりしているのだが、手書きをすると、漢字をすっかり忘れていることが丸わかりで、恥ずかしくなる。自分用の記録なので、どんな書き方をしてもいいのだけれど、脳トレのようなつもりで、いちいち辞書を引いたりして書いたりしている。

手書きが好きなのは、パソコンで文字を打っているときと、脳の働く部分が違うんじゃないか、と感じることだ。絵を書いているときと似た感覚になる。取材のときも話を聞きながらノートにメモは取るけれど、そのときの感覚とも違う。自分のためだけに書いているからかもしれない。

文字を書くのは、パソコンで打つよりも時間がかかるし、修正の跡が残ったりして、見た目は格好のいいものではない。けれど、あえて手を使って文字を書くと、ちょっとした静かな時間が流れる。

昔、とあるモノのコレクターだったとき、ベテランのコレクターが「10年経てば、埃もヴィンテージ」と言って、あえて綺麗に掃除をしたり、整えたりしていなかった。そのときは、「きれいにしたほうが持っていて楽しいんじゃないかなぁ」と思ったけれど、新陳代謝のスピードが速くなった現代は、5年前のモノでも珍品扱いされることが出てきた。

年賀状もどんどん減っていくだろうけど、続けていれば、それなりに価値は出てくるのかもしれない。なんの価値なのかは不明だが。時代の流れに合わせることも大切。けれど、コツコツ続けていくこともきっと何かの糧になるのだろうと思う。